近代における欲望する人間と情報の全面化
共同体を駆動するあらゆる力は、差異化されつつ、生存源泉と生存志向の狭間に出現するのであった。この狭間は自明なるものが突如出現する深淵である。が、そうして出現した自明なるものが生の土台を形作り、自生的自明性を成す。(「ウェットシャンプーとコンディショナーのお得なセット!【UN】 フレグランス ウォッシュコンディショナーセット ウェットシャンプー ウエットコンディショナー UN アンWASH FOR WET SUITCONDITIONER FOR WET SUITフレグランス ウォッシュ コンディショナーサーフィン ウェットスーツシャンプー ソフナー フレグランス 柔軟剤あす楽!」)。さて、この自生的自明性が構成的自明性に取って代わられるところに近代が現れる。そこをさらに見ていこう。
■異質化による形象的世界の出現
共同体の中では多くの力の流路が張り巡らされている。人々はそのつど何らかの力の流路と接続する。ただ、そのとき、流れ入る力は一旦切断され、その上で受容されるのであり、受容された力は各人に固有な力の集積を通過することにより、差異化されるのであった。さて、問題はここなのだ。もし、流れ入る力が切断されたままで、受容されなかったとしたら、どうなるのか?
各人の内には固有な力の集積がある。だから、流入してきた力は一旦切断され、受容され、差異化される。が、受容が可能なのは、流入してきた力と集積された力の間で、何がしか共振するものがあったからであろう。共振も共鳴もしないのであれば、その力は受容しようがない。
流入してきた力が、一度も集積されたことのない力であれば、共振も共鳴もしようがない。たとえば、全く見知らぬ共同体と出会ったとしよう。彼らは見たこともない儀式を執り行っており、しかもそれに加わるように言ってきたとしよう。さて、どうするか? うかつに加わったら危害を加えられるかもしれない。礼を失するようなことをして関係を悪くするかもしれない。逆に、加わらないことによって関係を悪くするかもしれない。
触知的な眼差しによっては何も見えない。見も知らぬ他者であり、どんな儀式かやったこともなく、自明性を、力を共有していないからだ。とすれば、力の共有なくして事態を認識しなければならない。それはもはや触知的な眼差しではない。眼差しは力から自立化しなければならないのだ。
力を受容できない状態を、力の差異化に対して、力の異質化と呼ぼう。受容されたなら、力の集積を通して差異化される。しかし、そもそも受容されないなら、差異化されようがない。むしろ、それは全く異質なものとして拒否されるのだ。これが異質化なのである。そして、ひとたび異質化されたなら、力が共有されないがゆえに、触知的眼差しは役に立たない。眼差しは、力から離れて事態を見て取らねばならなくなるのである。
それは純粋なる眼差しであり、見ることの純化である。では、力を見ないなら一体何を見るのか。それは、純粋な形である。
そもそも、見ることは形を見ること以外ではない。しかし、触知的眼差しは少し異なる。たとえば、痛みを感じ、痛いと認識する場合を考えてみよう。痛いと感じることは決して見て取ることではない。それは直接的な身体感覚である。が、それを「痛い」と認識しするなら、身体感覚は言葉にもたらされている。そして、言葉になっている以上、「痛み」という概念が成立しているのであり、その限りで形になっているのである。つまり、名状しがたい身体感覚は言葉を通して形とされたのである。
力は本来触覚の隠喩によって語られるべき種類のものである。それゆえ、それ自体いかなる形も持っていない。しかし、触知はそれを言葉にもたらし、概念にもたらし、それゆえ形にする。つまり、触知的眼差しは形なき力を形に造りなおすのだ。本来形をもたないはずの力を形しにしてしまう。本来触覚の隠喩にしか属さないものを、視覚の隠喩へ引き入れるのである。だから、触知的眼差しは力との相関においてしか成り立たない。
これに対し、純粋な眼差しはもはや力との相関のもとにはない。力から完全に切り離されている。とすれば、その対象は、初めから形なのだ。すべてが初めから形として見て取られる世界。それが純粋なまざしの対象領域である。触知的世界に対し、形象的世界。それは触知的世界とは全く異なる世界である。始めから終わりまで、ただ形だけが問題となる世界、それが形象的世界なのだ。
しかし、それはそもそも哲学の領域そのものではなかったか? 哲学は本来「見る」ことときわめて関係が深い。ギリシャ語で「見る」ideoの系統の語は2つあるらしい。一つはideinであり、いまひとつはeidoである。いずれも「見る」という意味であるが、前者に由来するのが、ideaであり、「形」を意味し、後者に由来するのがeidosであり、やはり「形」を意味する。ideaが主にプラトンが用い、eidosは主にアリストテレスが用いたが、アリストテレスはプラトンのイデア論を世界に内在するものとして読み変えた側面があり、イデアと言おうが、エイドスと言おうが、要するに形こそがその中心を成すのであり、「見ること」が決定的な特権をもつのである。
その意味で哲学の領域は初めから形象的世界であった。いや、むしろ哲学にとっては世界は形象以外の何ものでもなかったと言うべきであろう。形象の世界だけが真の世界であり、形象の度合いが低下すれば低下するほど、虚偽に陥るのである。純粋な形象こそが真理なのである。
おそらく近代とは、この形象的世界の全面化なのである。古代から中世にかけて、哲学の中心が形象にあったことに間違いはない。しかし、同時に土着の世界があり、またキリスト教の世界であった間は、人々の暮らしの次元にまで形象的世界が全面化することはなかった。しかし、近代は違う。その全面化が起こったのである。
その中心となるのが、「情報」であった。
■形象的世界と情報
情報とは言うまでもなく、informationである。これはラテン語の「informare」が語源であり、これは「心・精神に形を与える」ということを意味していたらしい。というのも、そもそもラテン語のformがギリシャ語のeidosやideaに相当して、形を意味しているのである。つまり、formはギリシャ語のeidosやideaと同等の意味をもっており、そこからinformareが由来し、それがinformationになっているのである。その意味で「情報」はギリシャ哲学の正統な嫡子と言える。それは形を人の心に与えるものであり、その中心は形象にあるのである。
近代が形象的世界の全面化であるとは、他でもない、情報の全面化を意味しいている。近代は情報化していくことによって、形象的世界を全面化していくのである。
先の例をもう一度思い起こそう。全く見知らぬ共同体と出会い、見たこともない儀式に加わるように言われ、共有する自明性がないがゆえに全く判断がつかないとき、唯一頼りにすべきはおそらく情報なのである。
見たこともない儀式について調べ、それが何を目的としており、参加して何をすることになり、それが自分たちにどのような結果をもたらすことになるのか、それを正確に知ること、それが何より重要であろう。その情報が手に入れば、その儀式に加わるべきか、加わるべきでないか、判断ができるであろう。
そのとき、儀式がもたらす諸力をあらかじめ受容する必要などない。見知らぬ共同体と前もって自明性を共有する必要もない。そうした力の共有から完全に自立化し、身を引き離し、その儀式を客観的に(とはつまり、純粋な形象として)見て取ることだけが重要なのだ。それによって「事実」が浮かび上がる。そして、その事実に基づき自分たちのとるべき行動の判断をするのである。
このように、力を受容できず、拒否し、異質化することによって、触知的眼差しは自立化し、純粋に形象的な眼差しとなる。こうして世界は形象化されるのである。
しかし、この形象化は前近代的な世界においても見出されるものである。ただ、前近代においては、形象化は触知的世界の中に伏在していたと言っていい。前近代的な世界は、基本的に触知的世界である。触知的なるものが土台を成す世界である。が、上に見たように、その中でも異質化が発生し、触知的なものから離れ、情報が必要とされる事態が起こる。そのとき、触知的世界の中に形象的なものがさまざまな仕方で現れるのである。
もちろん、触知的世界であろうと、ごく単純な意味での事実を知る必要はいつでも生じ得る。共同体内で先祖を祀る重要な儀式があるというとき、それに加わろうと思えば、いつどこであるのかというきわめて単純な事実を知る必要がある。そんなことは、いつの時代でもごく日常的にあることだ。重要なことはそうしたことではない。いつどこであるのかという情報が必要となるのも、そもそもその儀式の何たるかを触知的に知っており、それに参加すべく駆動されているからである。問題は、そのような触知的世界を覆すような性質の情報なのだ。そして、それは異質化によってもたらされるのである。
だが、そもそもなぜ異質化が発生するのか? もちろん、自明性を共有できないからであるが、どのような場合に自明性が共有できなくなるのか? ポイントはおそらく生存志向にある。
そもそも、生存源泉は自明性を共有さしめ、共同体を一体とする根源的力であった。しかし、生存志向は逆に生の形を得るために人々を闘争させ、分離さしめる力であった。人は自分の望ましい生の形を得るため、より有利な立場に立つため、より多くの利益を得るため、互いに争う。そのとき、互いの間に共有されているものは機能しない。同じ共同体に属しているなら、神々や先祖や伝統などを共有しているはずであろう。しかし、望ましい生の形を得ようとする志向が強ければ、それらの共有されているはずの自明性は力を失う。生存志向と生存源泉の間に亀裂が走る。ここにおいて異質化が大きな地歩を占めることになる。
とは言っても、前近代においては、生存源泉の力はいまだ強い。生存志向が全面化することはない。しかし、それが、近代において全面化するのである。われわれが社会契約論に見たのは、そのことなのだ。
■未来と変化と富の増殖を欲望する人間類型の出現
われわれはすでに生存志向が全面化するプロセスをヨーロッパの近代化の中に見た。まず、11世紀頃からの叙任権闘争を通して聖なる世界と俗なる世界に境界線が引かれ、神の支配の及ばない、人間が自由に欲望を追求できる世界が現れた。(「叙任権闘争による神なき人間世界の始まり」)。そこでは、とりあえず聖なるものに囚われず、俗なるものを俗なるものとして欲求できるベースが生まれてくることになる。
同時に1096年に始まる十字軍をきっかけに交易が活発になり、自給自足から貨幣経済への変化が起こり始める。(「超軽量・大容量・A4サイズに折りたたみ可能なゴルフクラブケース! クラブを8本ラクラク収納できるので、打ちっぱなしなどちょっとした練習に最適! ゴルフクラブケース ゴルフバック ゴルフバッグ 練習用バッグ 軽量 大容量 A4サイズに折りたたみ可能 8本収納バック 2つポケット付き コンパクトソフトキャリーバッグ ゴルフ用品 キャディーバッグ 打ちっぱなし 送料無料 グローブ ボール」)。見知らぬ共同体間で交易をおこなうには、等価交換をしなければならず(壺1つに対して穀物どのぐらいと交換できるの?ということ)、そのために貨幣による媒介が必要となった。だが、それだけではない。当初、モノとモノとの間に貨幣による媒介がある(商品→貨幣→商品)状態であったが、それが、貨幣と貨幣の間にモノによる媒介がある(貨幣→商品→貨幣)という状態へ進化することになる。つまり、手持ちの商品を貨幣によって交換するのではなく、手持ちの貨幣を商品の交換によって増殖させるということが生じるのである。マルクスによれば、これこそが資本主義の始まりである。
米を魚と換えてほしいから貨幣を媒介とした交換を行うというのではなく、貨幣をもっと増やしたいから米を売ってより多くの貨幣と交換する。こうして、貨幣の増殖が始まるのであり、この増殖する貨幣のことを特に資本と呼ぶことになる。単なる交換の手段としての貨幣は資本でも何でもない。元手となってより多くの貨幣に増殖する貨幣、それが資本なのである。
こうして無限に富を増やすということが人間の行動のベースとなっていく。貨幣経済とは、単に物々交換から貨幣を媒介とした交換への変化を意味しているのではなく、貨幣を無限に増殖させていく経済のあり方への変化を指すことになる。聖なるものから解放され、俗なるものを欲求できるという変化の上に、富を無限に増やすというエートスが折り重なっていく。こうして人間の欲望は解放されていくのである。
さらにそれに拍車をかけたのが宗教改革であった。ヨーロッパ中世は創造による神の秩序という過去設定を何より重視する時代であった。神が定められたもの(したがって、過去)を勝手に変えてはならないというわけである。それに対し、創造の秩序を罪によって台無しにされたものと見なし、終末における罪の贖い(したがって、未来)こそを最重要と考えたのがプロテスタントであった。いまや過去は罪として裁かれるべきものとなり、代わって終末における救いという未来こそが何より重視されねばならないものとなる。
過去はもはや否定されるべきものである。したがって、過去にこだわることは何もない。重要なのは未来だ。未来へ向かって過去を変えていっていいのだ。未来と変化こそに価値がある。これこそが宗教改革が生み出したエートスと言える。富を無限に増やすというエートスを未来と変化という価値がいっそう駆動することになるのである。
かくして、11世紀から17世紀ぐらいまでの大きな変化の中で、神から解き放たれ、未来と変化を志向し、富を増やすという欲望を徹底的に追求するというタイプの人間が現れる。この人間類型こそが近代という時代を生み出すことになるのである。
そして、こうした人間類型をベースにして形成されたのが社会契約論であった。アリストテレスにとって人間の本性(自然状態)は、ポリス的であることであった。つまり、人間は自然本性として国家という共同体を形成するようにできているのである。自然状態で放っておけば、国家を形成してしまう、それが人間だというのである。(「アリストテレスの国家観の再移入から社会契約論へ」)。
それに対し、社会契約論は、自然状態を孤立的なものと見なす。ホッブスは生存のための闘争状態と考え、ロックは労働主体による自由と平等と見なし、ルソーは野生人の自己愛と哀れみによる単発的関係と考える。いずれにせよ、人間の自然状態は国家形成以前の孤立的状態なのである。(「社会契約論における自然状態」)。
これは他でもない、上の人間類型を前提としている。未来と変化を志向し、富を増やすという欲望を徹底追求する人間。実際上はともかく、このタイプの人間を純粋に類型化すると、それが異質化を前提としていることが分かる。富を増やすことこそが第一義的に重要である人間にとって、他の人間はすべてライバルだ。欲望を徹底的に追求する人間にとって重要なのは自分の欲望だけである。それが実現されるために必要とあらば他者と共同もしよう。しかし、それを邪魔するなら他者は敵である。自分の欲望実現のために生きる限り、基本的には他者はすべて敵だ。味方になるのは互いの欲望実現にとって共同が利益になる場合だけである。
この敵という他者との間では、自明性の共有が第一義的に機能することはない。たとえ、同じ神を信じていようと、同じ血族に属していようと、同じ郷里の出身であろうと、ひとたび富の追求競争となるや、そんなことは関係なくなる。みな基本的には敵なのだ。同質性が機能するのは一定の限界点までである。その限界を越えると、互いに敵であるという異質性こそが関係性を支配することになる。
この異質性をホッブスは文字通り闘争状態と捉えた。それに対し、ロックはそれを自由と捉えるとともに、欲望追求の権利が万人に開かれていることを平等と捉えて、積極的に評価した。ルソーは本来の自然人においてはそもそも欲望追求は第一義ではなかったのに、それが土地所有等によって破壊されることによって欲望追求を第一義とする人間が現れたと捉えた。いずれにせよ、富の追求を第一とする人間どうしの異質性、それこそが近代のベースを形成することになる。
こうして生存志向はもともとの自生的自明性から脱却することになる。同じ信仰や同じ血族、同じ郷里といったことをベースにした同質的な関係性から脱し、富の追求という異質性を中心とした関係性が形成されることになる。これが生存志向の自立化である。近代においては自生的自明性のもつ同質性が後退し、異質性こそが全面化していくのである。
では、異質性を前提としたとき、人は互いにどのように関係を結んでいくことになるのか? 自生的自明性が本来の機能を果たさないなら、何をもって互いに理解し合ったり、共同歩調をとったりするのであろうか?
上に見たように、そこで決定的な役割を果たすのが、情報なのである。
■情報、知識、理論
信仰が同じなら、血族が同じなら、郷里が同じなら、あれこれ言わなくとも触知的に理解し合えるであろう。だが、異質性がベースなら、あれこれ言わなければわかり合えないのである。他者の状況、目的、考え方等々、触知的理解から離れて、いちいちそれ自体として知る必要が出てくる。それらを見て取ることをそれ自体として遂行しなければならなくなるのである。
触知に対して、情報が、見て取ることが、形象が決定的な役割を果たすことになる。それまで触知的世界の中に内在化していた形象的なものが、自立化し、全面化し、一つの独立した領域を形成し始める。生存志向の自立化は、同時に形象的世界、つまり情報領域の自立化でもあるのだ。
実際、異質性がベースとなる世界で自分が有利になるように事を展開しようとすれば、他者の動きを客観的に知る必要が生じる。情報が不可欠となる。その情報を得ることによって、今後を予測し、これから起こりうることに備えることができる。
それは、自明性に突き動かされることとは根本的に異なることである。神が命じたもうから為すという場合、結果がどう予測されようと、神を信じて実行するということが何より重要になる。しかし、異質性と情報の世界では、事実を知り、予測し、望ましい結果を得るべく行動することが不可欠となる。なぜなら、それを破砕するような強い自明性の力がないからだ。命じたもう神はもはや弱体化している。ならば、人が事実に即して行動する以外ないのだ。
しかし、それなら、情報だけで十分と言えるだろうか? 確かに、情報はそのつどの出来事や状況を知らせてくれる。が、それは本来、きわめて文脈依存的なもののはずである。つまり、いまここでの状況に強く規定されている。自分たちの計画を敵が阻止しようとしているとき、その極めて限定された文脈の中で、対処に必要な事実をいち早く捉まえなければならない。それは確かにその通りである。しかし、そのことを事前予測することはさらに重要であり、そのためには敵に関するもっと広範な事実を知っておく必要があろう。が、それだけでもない。そうした敵の動きの本質を捉えるためには、地形や天候などさまざまな基礎となる事実も知っておく必要がある。こうして文脈はどんどん広がって、結局、特定の文脈に捉えられない汎文脈的な事実を知る必要も出てくる。
この汎文脈的な事実を「知識」と呼んで、情報と区別しよう。情報は文脈依存的であるのに対して、知識は汎文脈的である。ただし、両者を原理的に区別することはおそらくできない。その区別自体が文脈依存的になるであろうし、それによってその境界線はそのつど動くであろうから。
しかし、もうひとつ、文脈から完全に脱却するということがあり得る。「汎文脈性」に対して「脱文脈性」である。この脱文脈的なものを「理論」と呼んでおく。知識がさらに理論のレベルに達するについては、原理的な問題が重要になる。なぜなら、文脈を脱していると言えるなら、その境界を特定できるはずだからである。汎文脈性は多くの文脈を束ねたような広範さを指す。よって、どれだけの広範さが汎文脈的と言えるのか、線引きは難しい。しかし、脱文脈性は、文脈自体を脱却するがゆえに、文脈と非文脈の区別が生じ、それを特定することが可能であり、それゆえ必要となる。科学における検証可能性などはその典型例と言えよう。
こうして、異質性における形象的なるものは、情報、知識、理論と進化していくことになる。すでに見たように、情報の持つ形象性、つまり、ラテン語「informare」のもつ「form」は、ギリシャ語のeidosやideaに相当しているのであった。そして、eidosにしろ、ideaにしろ、その形象性は基礎づけの秩序を成しており、理性的には理論的秩序であり、内面的には魂の秩序であり、存在論的にはコスモスの秩序であった。情報は形象というその一点において、知識へと、そして理論へと通じているのである。
とすれば、結局のところ、異質性は情報、知識、理論を含む理論性の領域を全面化するとも言えるであろう。それは単に17世紀の科学革命だけを指しているのではない。確かに科学革命は哲学に大きな変容をもたらした。それまで哲学の対象領域であった自然を科学という新しい理論化の方法によって独立さしめた。だが、重要なのはその後だ。自然科学は一つの規範となって、科学を他の領域にも広めるきっかけとなったのである。今日諸科学は、経済、魂(心理)、社会、生命、その他さまざまな領域をその脱文脈的な方法によって理論化しているのである(もとより、どこまでが真に科学と言えるのかは別問題であるが)。
こうして、われわれの卑近性を取り囲むさまざまな事象が理論化されることになった。そして、それらの土台として常に存在しているのが、情報なのである。知識を手にし、理論を得る以前に、われわれは常に情報に立脚している必要がある。情報と事実を土台とするからこそ、知識へと、理論へと進むことができるのである。
その意味で近代においては生活の土台は情報によって形成されていると言っていい。触知的な世界ではなく、情報に媒介された世界こそが近代人の日常なのだ。
■近代に特有な構成的自明性と実践-理論闘争
ならば、自明性はどうなるのか? すべては理論性に支配され、自明性は消滅するのか? そんなことはない。「構成的自明性としての社会契約論」で見たように、ロックにおいては生命、財産、自由は新たな生存源泉として自明なるものと見なされた。なぜ生命が守られねばならないのか、なぜ働いた成果は働いた者の所有になるのか、そのためになぜ人は自由でなければならないのか。そんなことに説明がいるだろうか? 理由付けがいるだろうか? あまりに当たり前ではないか。
確かに近代において、古き生存源泉は次第に弱体化していった。神も、村の掟も、人々の生存の源泉にはなり難くなっていった。しかし、だからと言って生存源泉という自明性が消滅したわけではない。人が生きていくには、生きる意味を生み出してくれる源泉が不可欠なのである。
中世においては働いた成果は地代で奪われ、生殺与奪の権も支配者に握られ、ひとたび農奴に生まれればそこから脱する自由もなかった。しかし、いまや働けばその分は自分の財産になり、農奴であっても商人になることもでき、また生殺与奪の権を握る者もいない。これがどれほどの希望を人々に与えたかは計り知れないであろう。それはまさに生きる意味の源泉であった。生存源泉は近代において新たに形を変えていったのである。
この新たな生存源泉の自明性こそが、近代における自明性の基礎となる。もちろん、生命、財産、自由というのは、自明なるものの一例ということになろう。それだけが近代における自明性ではない。むしろ、近代が変化と未来志向の時代であるがゆえに、自明性がさまざまに形成されるところにこそ近代の本質があると言うべきである。
たとえば、確かに人が自由であることが自明なら、労働者が拘束されるとき、正当な理由がなければならない。それゆえ、労働契約があり、正当な対価が支払われてはじめて拘束が可能となる。それは自明であると同時に、理論的な(理屈に適った)ことでもある。
しかし、他方でそれにまつわる別の自明性が形成されることも考えられる。たとえば、勤勉は美徳であるといったことである。もしそうなら、労働契約に定められたよりも多くの時間を労働に費やすことが奨励されることになろう。そして、その美徳の前では個人の自由も必ずしも重要ではなくなるといったことも考えられるかもしれない。とすれば、自由に基づく理論性(理屈に適ったこと)は後退し、勤勉を美徳とする自明性に基づく理論性が大きな地歩を占めることになろう。
近代においては自明性はさまざまに変転する。前近代のような安定性はない。生存源泉であろうと、生存志向であろうと、さまざまな自明なるものが人々を捉えるのである。なぜか? それは、異質性を基本とする世界では、情報が人々を規定するからであり、その内容によって新たな自明なるものが形成されたり、縮減されたりするからである。変化と未来志向こそが近代の本質である以上、新たな情報が常に自明性を更新していくということがあり得る。事実も現実も、情報こそが形成するのである。
しかし、そのようにして形成された自明性が、今度は逆にそのつどの情報を規定するということが生じる。情報だけではない。さらに知識を限定し、理論を侵食する。一見客観的に見える情報や知識、理論の背後に思わぬ自明性が潜んでいることもあり得るのである。とすれば、情報や知識、理論と自明性は相互に強化し合う循環的関係に入ることもあり得る。特定の情報や知識、理論が特定の自明性を形成し、その自明性がまたその特定の情報や知識、理論を強化し、それがさらにその自明性を強固にする。自明性は変転するとともに、情報や知識、理論を通して、自らを強固に維持していくのである。
このように形成され、維持され、変転していく近代に特有な自明なるもののあり方を、構成的自明性と呼んだのであった。自生的自明性は、その自然発生性ゆえに、形成されることもなければ、情報等によって強化されたり、変転したりすることもない。しかし、構成的自明性は、まさに情報や知識、理論と相互関係に入ることにより、独自の運動をすることになるのである。
もちろん、構成的自明性も、自明性である以上、自明性として機能する。すなわち、理由付けなく人々を捉え、動かす。しかし、その自明性は常に懐疑可能である。情報や知識、理論との循環的な強化関係にある以上、別の情報、知識、理論によって変容されることがあり得るからである。すなわち、構成的自明性は常に批判可能なのであり、また批判されねばならない。なぜなら、妥当と思われる理論性の背後に、妥当とは言い難い偏狭な自明性が潜んでいることもあり得るからだ。
これが実践-理論闘争である。前近代における自生的自明性は決して批判を許さなかった。あからさまに批判する者は共同体の破壊者と見なされたであろう。しかし、近代においては違う。むしろ、構成的自明性は批判されねばならず、批判を通過する限りにおいてのみ、その自明性としての力を保持することができるのである。
このように、近代とは自明なるものが構成的自明性となる時代であり、自明性が不断に批判されねばならない時代なのである。
この構成的自明性の姿をさらに具体的に捉えていこう。
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